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渋沢栄一という人物をもっと知りたい 大河ドラマ「晴天を衝け」

こんにちは、環境デザイン研究所です。

渋沢栄一という人物

2021年の大河ドラマ、2024年には1万円紙幣の肖像に決まり、注目を集め始めている『渋沢栄一』氏。今「再発見」されようとしています。

これらの参考資料から紐解いていきましょう

経営学・マネジメント論で世界的に有名なピーター・ドラッカーも渋沢を次のように評価しています。
「私は、経営の社会的責任において論じた歴史的人物の中で渋沢栄一の右に出るものを知らない」「彼は世界の誰よりも早く、経営の本質は責任に他ならないことを見抜いていた」と
渋沢は誰よりも「実業家は公益(社会貢献)を追求して事業を行うべきだ」ということを強く主張した。『義』の考え
(日本の経済活動で貢献した人物2人上げている。渋沢と岩崎弥太郎だった)

『尊王攘夷主義者から、一橋家の家臣になり、さらに明治新政府の官僚、銀行創業者へと青年時代のうちに大きく立場を変えていった渋沢栄一。その根底には、常に国がどうあるべきか考え、自らそれを実現しようとする努力がありました。私たちは激動の時代に、日本の近代化の礎を作った渋沢栄一から、いまだ学ぶべき多くのことを見逃しているのではないでしょうか?』

このようなコンテンツで話を進めていきます。

イントロダクション

実績;実はノーベル賞の候補にも2度上がったそうで、「近代日本の資本主義の父」とも称されるすごい人!実績は500社以上の企業に関わり約600の公共事業、教育や福祉活動にも生涯にわたって力を注いだ。日本の近代化の礎を作った人。隠れた功労者。国際交流や民間外交を通じての国際平和への貢献が評価されノーベル平和賞候補に推薦されていました。

明治維新のころ、渋沢先生はヨーロッパに行き、向こうには会社がたくさんあるのを知って、びっくりしました。そして日本にも会社が必要だと思い、次々にいろんな種類の会社をつくって、日本の経済を変えました。
携わった企業;日本最初の近代的銀行の第一国立銀行、銀行の全国への普及、日本鉄道会社、東京ガス、セメントや紙をつくる会社、、富岡製糸工場、のちの日本郵船、のちの東洋紡という繊維会社、帝国ホテル、札幌ビール造船所、今の清水建設、東京海上保険、東京株式取引所などをはじめ、多くの株式会社を創り、他人にもその設立を勧めて力を貸した。三井財閥の相談役も努めた。

当時の日本の生活を支えるのに重要な役割をはたした会社ばかり。そういう会社がどんどん発展して、日本を豊にしました。日本が長く鎖国をしていたのに、明治時代になって、すぐに西洋に追いついて、立派な国になれたのは、経済がしっかりしていたからです。(教育水準と)そのために頑張ったのが渋沢先生でした。

そして近代日本の土台を形作ったと言っても過言ではない、こんなにもすごい人を私たちはなぜ今まで知らなかったのでしょうか?(戦後のレジームで隠れていた)

実は私も「お金との付き合い方」に悩みを抱えていました。「清く、美しく生きるにはお金のことを考えるのはよくない」「お金は後からついてくるもの」と考えた方が綺麗だ。そんなふうに考えよう考えようとしていました。

渋沢の主張;『商才と道徳は一体であるべきと』
後世の儒学者たちによって誤解されていること、彼らが論語から得た解釈によれば、道徳と利潤とは、お互い水と火のように相いれないと言っている点だ。=これは清く正しい生き方をしようとすれば、お金儲けはできない。逆にお金儲けをしようとすれば道徳の道からはずれてしまうというのである。とりわけ罪深いのは宋の朱子という儒学者だ。この人は博識で偉い面もあったけれど、そのぶん悪影響も大きかった。と
➡️いや!渋沢は言う論語を隅から隅まで読み返しても、孔子はそんなことは言っていない
金や地位に溺れるものを戒めこそすれ、正しい方法で得た利益や地位はむしろ奨励している。ここのところを完全に学者たちが取り違えてしまって伝えていることに、憤りすら覚えている。

その影響を受けてか当時も「金勘定は卑しい・金銭に関わることを嫌がる」侍の風潮。

この本「論語と算盤」のおかげで、この思考のバイヤス「思い込み」に気付くことができ、「お金は汚いものではなくて、お金には心はなくて、それを使う人次第で、よくも悪くもなるもの」お金をもうけることは全然悪いことじゃない。お金もうけだけを目的にするのはよくないけど、お金を使ってこの社会をよくしていけばいいんです。「お金をしっかりしたやり方でもうけよう」なんて、教えてくれる先生は誰もおらず、渋沢先生はそういう正しい道を教えてくれた人です。それを伝えたくて還暦になってから「論語と算盤」という本を書きました。(「道徳経済合一説」)
その思いは今も受け継がれ、たくさんの会社の社長や政治家の人たちが勉強のために使っています。

(要は『社会を、世の中を発展させていくことができるのがお金、すなわち健全な経済活動である。』)

お釈迦様もこのような言葉が残ってるそうです。(「ブッダのことば」仏教学者;中村元訳)
「正しい法(に従って得た)財を以って母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く」と

渋沢が生きた時代背景;

生まれた年1840年(アヘン戦争)亡くなったのが1931年(満州事変)。彼が生きた時代はまさに東アジア激動の時代だった。そんな中、日本は西洋をはじめとする外の文明と接して、新たな文明を築き上げようとしていた。幕末、明治、大正、昭和を生き抜いた90年あまりの彼の生涯。を見ていきましょう。

日本でも幕末から明治に移り変わる激動の時代。
同じ時代を生きた人に
吉田松陰は1830年生まれ(1859年30歳でなくなる)
松陰は子ども時代、父や兄のとともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、松蔭も「論語」をはじめ中国の古典を学んでいた。

西郷隆盛(1828〜1877)はじめ
東アジア激動の時代、誠のあるリーダー・維新の功労者たちを排出した時代です。
私見;徳川が進めた「論語」の教育的素地がこのような人物を育てたのではないか?

(※「文政十年の詔」[注 1]「神国由来」[注 2]、その他頼山陽の詩などを父が音読し、あとから兄弟が復唱した。夜も仕事をしながら兄弟に書を授け本を読ませた。
四書五経=四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、5経「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」。君子が政治に対する志を述べる大説として、日常の出来事に関する意見・主張や逸話など。)松蔭も「論語」をはじめ中国の古典を学んでいた。

渋沢栄一という人物の生い立ち(少年時代)

渋沢は1840年、現在の埼玉県深谷市(血洗島)というところで、三男として生まれました。血洗島という地名は利根川の流域にあったため、地を洗うところからきているという説もありまた、戦国時代末期にここへ落ち延びてきた武者の吉岡家に「血塗られた刀を洗って百姓になった」という言い伝えがあったことからなど、定説ははっきりとはわかっていません。

土地が砂礫のために米作りには向いていないこともあり先祖は、大変苦労しましたが、ある時(贅沢品であった)シルクの需要ができ、1700年代後半から養蚕が盛んとなった頃、砂礫の地質は桑を育てるためにはプラスの要素に働いた。それと加え藍玉(藍の染料)で巨万の富?_を築いた。そんな頃、渋沢は誕生した。(藍玉の商いが大きかった)

父は「論語」を空で覚えているほどの人物で、勤勉家で厳格、教育熱心だったせいで、子供の頃から本好きであった。その時代は学問といえば家康が決めたそれであった。母えいは、慈悲に富んだ人であった。

三男ではあったが、長男、次男が亡くなってしまい。繰り上げと言ってはなんですが、長男となった。名前もその都度変わったそうです。

渋沢の志を立てた時:
1853年、浦賀に黒船ペリー来航の大騒ぎが起きました。渋沢は14歳の時であった。父の膝下に座りそんな光景をみたのだった。その時「私は少年ながら、非常に重大な憂慮すべき雰囲気に包まれていることを知ったのであります。その瞬間からわたくしは、日本の国のために尽くそうという、漠然としてはいるが熾烈な、希望に満たされた、いわば別個の人間になったのでございます

とのちに語ったそうです。渋沢さんをつくる最初の大きなエポックとなった。(そういう人間になりたい)志を立てた時ではないでしょうか?

その頃の生活;
養蚕、藍玉の原料の生産販売、雑貨の商い、質屋業もしていた環境。農業と商業と工業(手工業)が渾然一体となった家庭で育った。=お金の計算は自然と身についた。+学問を身につけたことが大きかった。早くから算盤をはじいて商売をしていたので、のちに経済界で活躍することができたんですね。

そのころのエピソード:
質の良い藍玉を作るために藍玉の番付のようなものをつくった。それは競い合って良いものをつくって欲しいというよりかは、寄り合いの時なんかに、番付の高い人から「どうやったら良いものが作れるのか」話してもらっていた。そうすることでみんなのレベルが上がり、その地域ですごく良い藍玉ができるようになり、みんなが幸せになっていく。

当時、江戸時代の学問といえば中国の古典を学ぶ漢学であった。儒教、孔子様の教え、特に論語を中心とした一つの思想体系、(朱子学)

(大河ドラマのタイトル「晴天を衝け」というのは、19歳の時、藍玉の商業のため、信州方面へ旅に出た時に、険しい内山峡という所で詩作し読んだ漢詩の一説から来ています。「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」(意:青空をつきさす勢いで肘をまくって登り、白雲をつきぬける気力で手に唾(つば)して進む)(長編の一部、石碑に刻まれている)
生涯の趣味は、書と漢詩であった。筆を手にするひとときが栄一にとっての静養であったことは、書が好きだと語る栄一の気持ちから察することができ、書くときの気持ちについて「外の事は何にも頭に浮かばなくて無心になるのが大変愉快である」と語っている。読書も好きであった。

「論語」で好きな章は、三省だった「吾、日に吾が身を三たび省みる」渋沢は、寝る前に毎晩これをしていたという

尊王攘夷運動に加わっていた時代(青年時代)

社会の矛盾を感じ始めていた頃、水戸学に傾倒し、尊王攘夷思想を持つようになっていた師匠・尾高惇忠の影響も受け、栄一は幼いこ炉から交流していた尾高長七郎、渋沢喜作らと天下国家を憂え、論じ合うようになる。1863年に仲間と共に攘夷実行計画の密儀を行い、高崎城を乗っ取り、兵備を整え、横浜外国人居留地を襲撃、焼き討ちして、外国人を片っ端から切り殺すという計画まで立てたが、尾高長七郎の反対で、大激論が交わされた末に中止とした。幕府に捕縛される危険もあったため、栄一は喜作とともに、伊勢参拝を兼ね京都見物にいくと吹聴し、京都へ旅立った。
後に、その尊王攘夷で東奔西走していた頃のことを渋沢は
「残念だが、青年時代の情熱に任せて誤った道を歩み、肝心の修養期間をお門違いの仕事に費やしてしまった」ということを言っていたそうです。

一橋家に仕える

お百姓さんの身分であったが諸条件が重なって将軍のしんせきである一橋家に仕えた=お侍となった。当時の慶喜(一橋慶喜)は優秀・英傑で人気も高かった。こうした元で『国づくり』自分の志の一旦を担えるのではないかという思いもあったのではないだろうか。言ってみれば見習い社員から入った。家で鍛えた、お侍にはない経済感覚が渋沢にはあった。一橋家の財政改革策を提言。商才を発揮=アイデアが溢れた=不を便利に、仕組み作りのアイデア。大いに貢献した。商才とは?具体的に考察してみる。センスがある人

この時代も「金勘定は卑しい・金銭に関わることを嫌がる」侍の風潮。皆が避けていたのかもしれない。(冷静に時政を見極め、内外の情報をとらえ、状況の変化に応じた)

このような大人物であることから大きな方だと思ってしまいますが、実は身長は150cmあるかないかの小柄な方だったようです。

渡欧時代

1867年に15代将軍の慶喜の名代(代理)として弟の昭武がパリ万博に渡航する際の出納係として随行した。昭武の渡仏目的は江戸幕府を代表してパリ万博に出席し、その後に欧州各国を訪問することによって幕府の存在を国際的にアピールすることであった。さらに昭武を将来の指導者とするべく、長期留学も兼ねていたのである。総勢33名、約1年半の渡欧中、渋沢は庶務・経理等を担当した。

当時27歳の渋沢は初めての海外でヨーロッパの近代国家と文化を目の当たりにした。とりわけ産業や経済の発展(ビジネス)がいかに大切かを実感した。そして身分の差のない社会を見た(身分のない社会へ志)。株式会社の仕組み(大勢の人から資本を集めて、社会に役に立つものを作り、出資額に応じてそれぞれが利益を受けとる)に感心した。

約1年半の滞在中に、フランス・スイス・ベルギー・イタリア・イギリス(欧州各国)などをめぐって資本主義文明を学んだ。この時の見聞によって得た産業、商業、金融(先進技術、社会・経済に関する組織、制度に触れそれらを実際に体験できた)に関する知識は、彼がのちに資本主義の指導者として日本の近代化を推し進めるのに大いに役立った。

後年の回想;で印象に残ったものとしてよく3つの事項を上げていた。
①ベルギーの国王が昭武に「国が盛んになるためには鉄をたくさん使うようにならなければならない、日本も鉄を買うようにしなければ」というようなこの様子を見て「西欧の君主は妙なことを言われる、直様御商売に関係する」ことに奇異の思いをしたという。
②日本でいえば「武士」階級の軍人である人と、「商人」の銀行家のものが対等の立場であることに「官尊民卑」の風潮の強い日本との大きな違いを感じ、栄一はそれを打破したいと考えるようになったという。
③フランスで株式・社債を実際に体験したこと。栄一は、昭武の留学費用を捻出するため、銀行家エラールの薦めで、政府公債と鉄道社債を実際に購入した。この時のことを栄一は「この時に、なるほど公債というものは経済上便利なものであるとの感想を強くしました」とも語っている。こうした機会から西欧における「合本主義」の制度(組織)、思想を実体験で学んだのであった。

後半・帰国

29歳〜
渡欧中に日本は大変なことになっていた。1867年10月に大政奉還され、徳川幕府は消滅していた。明治新政府からの帰国命令もあり、昭武の留学は中断せざるを得なかった。
ただ幕末の渡欧体験は、栄一にとって衝撃的なものであり、後の活動に与えた影響は決して小さなものではなかった。

(海外に行って、いろいろ勉強して、日本の国が発展していくためには、国を支えていくためにはやっぱりお金が必要なんだ」となった。でもどういうふうにお金を作るか「人格」と「お金儲け」はバランスが難しい。なんでこの「論語と算盤」をみんな評価するかというと「こういうバランスでやっていったらうまくいきますよ」っていうのが書かれている本なんだよね。栗山監督)

学びながら生かしていく、生かしながらまた学んでいく渋沢の生き方

その根底には、常に国がどうあるべきか考え、自らそれを実現しようとする努力があった

滞在を切り上げて帰国後、静岡の宝台院に蟄居中(謹慎のようなもの)の徳川慶喜に会った後、静岡で生活することになった。静岡藩の財政を助けるため、商法会所というものをつくった。栄一が合本法(組織)を初めて試みたもので、商社と銀行を合わせた業務を行った。
これが日本で最初の株式会社となった。

官僚時代

そんな若く有能な人物を見込んだ人がいた。明治維新の推進者の一人、早稲田の創設者、大隈重信だ。新しい国づくりに手を携えていこうと要請され、民部省(大蔵省)に就任した。そこは国の新しい仕組みを作るところだった。健全な国家の基盤となる財政金融制度を築くため、貨幣制度を制定し、近代的な銀行制度を導入した。また、度量衡(土地制度の確立のため)、電信、鉄道、郵便制度を実施したほか、官営の富岡製糸場のプランなど立てた。
国を豊にすることで文明も進歩する。

実業家時代

官僚を4年間勤めた後、渋沢は大蔵省を退官し、一介の実業家として下野した(反対して止めるものも多くいたそう)。本当の豊な国をつくるためには、自らが率先して起業し、産業をおこしていこうと決心をしたのだ。それから40年あまり、実業家時代を過ごした。渋沢は後に「私の志は青年時代、しばしばふらついた。最後に実業界で身を立てようと志したのが、ようやく明治4、5年の頃だ(官僚時代)、今思い返せば、この時が私にとって本当の立志だった」と語っている。

論語:「十有五にして学に志し、三〇にして立ち、40にして惑わず。五〇にして天命を知る・・・・」(孔子が志しを固めたのが15〜30歳の間と推定している)

そこからの仕事ぶりは本当に凄かった。まず、第一銀行(みずほ銀行)の総督に就任し、ここを拠点として投資を呼び込み、民間企業をどんどん設立していった。分野は、金融、物流、製造、エネルギー、サービス、・・・。起業家としてはもちろん、企業経営に直接関わる経営者としても卓越していた。また、福祉や教育事業にも。一橋大学や日本女子大学などの創設にも尽力。実業家後半には、発展がめざましかったアメリカ合衆国を中心に、民間外交に携わり、物と心の両面でキズナを結んでいった。こうして日本の近代社会を築いた一人として精力的に活動した。

実業家は公益を追求して事業を行うべきで、私利私欲を追求するだけでは、競争は激化し、弱肉強食の世界となる。道徳と経済の一致は、競争を「平熱」に保ち、健全な資本主義を維持する、合本法(組織)の精神的基盤となったのである。

栄一は官尊民卑を打破する手段として、「論語と算盤(道徳経済合一説)」を商業活動に従事する者の意識と地位の向上を図った。また「合本法」によって担う人材の育成として、学校や竜門社での教育を通して「官」と十分渡り合える民間経済人を次々に世に送り出した。

渋沢は資本主義という言葉を使っていない。「共力合本法」や合本組織という言葉で語っている。
「合本法」とは『義』すなわち公益の追求を事業の目的として掲げ、その目的に賛同する人々から広く資金を集め、事業を実施するための組織を作る。その趣旨をよく理解し実行できる適切な人材を選び、経営にあたらせ、経済活動を通して利益をあげ、国家社会を豊かにさせるという考え、と言えよう。パリ滞在中に学んだことを基にして、事業を行うための独自の方法を考え出したと思われる。
その手順、方法、規則などを解説した「立会略則」りゅうかいりゃくそくを大蔵省から出版もしている。

「幸い、論語のおかげで大きな過ちを犯すこともなく、人生を歩むことができた」渋沢は講演の中で何度もそう語った。

還暦時代から

渋沢は還暦あたりから堰を切ったように自らの経営思想を語り始める。とりわけ「商業道徳」の大切さを世にとうた。道徳と経済が一体となって発展していくべきだと説くようになったのは。実業界の第一線を退(シリゾ)いてからだった。「論語と算盤は」はその集大成として、1916年に出版された(76歳の時)。大正はじめ「一言で言うと慢心の時代」立身出世、金儲けの風潮。日清戦争、日露戦争の勝利の体験。激動の明治時代を過ぎ、世界の先進国の仲間入りを果たした安堵感、目標の喪失、現状に甘んじる風潮。そこで誕生した1つが「論語と算盤」。違うテーマで演説しても着地点は「道徳経済合一説」だった。いつの時代も普遍的なテーマではないか。

古稀70歳から

古稀の祝いを機会に、彼はすべての関係会社から引退し、また77歳には実業界から完全に身を引いた。
それ以降彼は以前から関係していた。病院、教育、国際関係などの社会・公共事業に専念した。

そのころの日常生活;
栄一は生涯、数多くの企業・団体の事業や活動に関わり、日々の生活は非常に多忙を極めていた。喜寿ですべての役員等を辞したあとも変わらず、忙しい毎日を送っていた。7〜8時に起き入浴、朝食を済ませ、日記を書き、書類を点検、書籍や新聞に目を通すこともあれば来客の対応をするときもある。午後10時には兜町の事務所に行き事務処理や来客対応、というのが午前中の生活パターンである。その後も栄一は来客の応接、各種事業の打ち合わせや会議、委員会への出席など忙しく動いた。本当に様々な人が栄一さんに会いにこられ、快く対応されました。
帰宅してからも、食事の後に書類や書状の点検、自身の原稿校正など行い、不意の来客に対応したりすることもあった。また、新聞、雑誌、本を読んだり、孫たちと遊んで過ごすこともある。そして就寝するのは10時から12時である。

社会のためにお金を使った。

91歳で亡くなるまでたくさんのお金を儲けました。そのころ同じようにお金を儲けた人たちは、家族や子孫にお金を残して「財閥」と呼ばれる大金持ちの集まりをつくりました。

しかし渋沢先生は「財閥」をつくりませんでした。「私利を追わず、公益を図る」という考えを持っていて、自分の子孫にお金は残さず、みな社会のために寄付してしまったのです。

社会で必要とされる病院や学校など様々なものをつくり、寄付金集めにも力を注ぎました。何度も政治家になるように誘いを受けますが、それを断り、1人の民間人として、最後まで社会活動をおこなったのです。

(「論語と算盤」は「お金持ちのすすめ」のような本
福沢諭吉の「学問のすすめ」はよく勉強して世の中の役に立つ人になろうという本)

天皇との関係
その関係は必ずしも深いわけではないが、渋沢、89歳の時、昭和天皇から栄一ひとりが昼食に招待された。老婆心からか若き天皇に、その長い生涯についても語り、パリ万博参加の時、ナポレオン3世が大衆を唸らせる演説をした後、それから数年後にドイツに完敗し退位したことや、そのドイツ皇帝も第1次世界大戦に敗れ、退位したことなど、このように国家や元首の地位は長期にわたって安泰とは言えない歴史を語った。日本でも軍部が強大な力を持つようになる中で、老婆心ながら若き天皇にこのような亡国の歴史を語ったのかもしれない。
その2年後危篤となった栄一を見舞うため、宮中から見舞いが飛鳥山に届けられた。

栄一は、幕末から明治初期にかけて、維新の功労者と接する機会が多かったが、彼らに対する栄一の人物評はなかなか興味深い。
・義を持って、明るく前向きな姿勢で果敢に困難に取り組み、決断できる人物を高く評価
岩倉具視はその典型
・情けに厚く、開放的で多くの人の意見を取り入れるリーダーに好感を抱いていた。
西郷隆盛に対する栄一の評価は高かった。
・不言実行の人で情に厚く、徳川慶喜を高く評価していた西郷どん
木戸孝允
・器が大きく、調和性に富み、広く意見を聞き、「尽忠憂国の立憲政治家」と高く評価している。
・他人の意見を聞かず、武力や権威を振りかざすリーダーに対して栄一は手厳しかった。
・知、情に(仁)に優れていても決断力に欠けるのも厳しく指摘している(三条実美)

一橋(徳川)慶喜との関係
終生、慶喜を尊敬し続けた栄一
徳川斉昭の7男で、幼少の頃から英明の誉れ高く、将軍候補と目された。慶喜がひたすら明治政府に対して恭順の態度を続けたのは、明治日本の近代化・産業化を順調に進めるためであったという心意を知った。慶喜は静岡で蟄居をしていた。
栄一はこのことを世に知らしめるために、旧幕臣らと図り、慶喜の復権を各方面に働きかけ、伊藤博文を通じて慶喜と明治天皇との対面を実現させた。1902年、慶喜は公爵に斜せられ、貴族院議員になった。
尊敬をおいていた栄一は聞き取りを行い「徳川慶喜公伝」を書いた。最も信頼できる資料となっている。栄一の墓も慶喜と同じ谷中の墓地にある。

評価、表彰

栄一は国内外から多数の表彰を受けた。
1840年の従6位から、1926年「勲一等旭日桐花大綬章」を受け
ドイツ、韓国、フランス、中国、ベルギー、などからも海外からも斜勲を受けている
明治の中頃には経済界や実業家たちの社会的な立場は変わっていき、他の人も勲章を得るようになっていた。

最期:渋沢の葬儀

1931年11月11日、栄一は飛鳥山の自邸で91年の生涯を終えた。午前1時50分家族に見守られながら安らかに息を引き取った。
飛鳥山邸には多くの皇族から供物が、葬儀前日には天皇からの御沙汰書が届いた。

葬儀当日、前夜から降り続いた雨も止み、快晴の下、棺とともに車列が飛鳥山を出発。門を出ると本郷通り沿いに滝野川町民、学校児童生徒らが整列して葬列を迎えた。更に、栄一が関係した東京商科大学、日本女子大学校、東京女学館の生徒他、多くの人々が栄一の死を悼(いた)んで沿道を埋めた。
斎場では、寛永寺門跡僧侶の読経の中、遺族、勅使、大臣、各国大使らが参列。告別式では、故郷の血洗島の人々をはじめ、栄一との別れを惜しむ多くの市民が斎場を埋め、会葬者の数は3万人を超えた。遺骨は谷中の寛永寺墓地(谷中の墓地)に埋葬された。

勅使=天皇の意志を直接伝えるために派遣される使い
(勅使が置いていかれた巻物には「高ク志シテ朝ニ立チ、遠ク慮リテ野ニ下リ、経済ニハ規画最モ先ンシ、社会ニハ施設極メテ多ク、教化ノ振興ニ資シ、国際ノ親善ニ務ム。畢生公ニ奉シ、一貫誠ヲ推ス。洵ニ経済界ノ泰斗ニシテ、朝野ノ重望ヲ負ヒ、実ニ社会人ノ儀型ニシテ、内外ノ具瞻《グセン》ニ膺レリ。遽ニ溘亡ヲ聞ク、曷ソ軫悼ニ勝ヘン。宜ク使ヲ遣ハシ賻ヲ賜ヒ、似テ弔慰スヘシ。右御沙汰アラセラル。」)

栄一は自らの望みを遺言に託した。1931年6/26日遺言書には
・道徳風致の振作・経済産業の発達・実業教育・女子教育の興隆・社会事業の助成
・資本労農の協調・国際親善・世界平和の促進のために努力してきたこと、今後も自邸がこれらに供する場となることを願い、自分の主義と一致する財団法人竜門社に自邸を遺贈することが書かれている。栄一没後、その遺志に従って自邸は竜門社に寄贈された。

完成。

没後に尾崎行雄が栄一の特徴を次のように挙げている。
一、頭がいい
一、勇気があった。度胸の座った人である
一、親切にものを考えると同時に、勇断可決、果断決行、よく謀りよく断ずる、即ち善某善断。
一、執着力が強い
一、事業の遂行力が非常にあった
一、親切心に富んでいる

(性格は温和で「怒ということを忘れられたのでは無いか」と評されることもある。)

最後まで見ていただき、本当にありがとうございました。
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また、渋沢栄一さんが遺した「論語と算盤」も解説していきます!

それでは次回をお楽しみに。失礼します。

 

 

思想

渋沢栄一の思想を読み解く上で、手がかりとなる3つのポイント。

1、論語をはじめとする古典;「豊になる源はなんだろうか。私はそれこそ仁義や道徳だと考える」論語に示されている道徳が、算盤をうまく弾かせるという考え方だ。

2、生家で過ごした少年〜青年時代の体験

3、幕末の渡仏、後年の米国などの海外視察

さらに、長いこと論語はゆがめられて伝えられてきたという。そのことはまるでサブテーマのように本書で何度も形を変えて取り上げられている。論語はもともと日々の暮らしに密着し、わかりやすく生き方を説いたものだ。それが後世の儒学者たちによって小難しいものとなり、とりわけ罪深いのは宋の朱子という儒学者だ。この人は博識で偉い面もあったけれど、そのぶん悪影響も大きかった。

その最も誤解されてしまった部分とはこうだ。彼らが論語から得た解釈によれば、道徳と利潤とは、お互い水と火のように相いれないと言っている点だ。=清く正しい生き方をしようとすれば、お金儲けはできない。逆にお金儲けをしようとすれば道徳の道からはずれてしまうというのである。

だが渋沢によれば、論語を隅から隅まで読み返しても、孔子はそんなことは言っていない。金や地位に溺れるものを戒めこそすれ、正しい方法で得た利益や地位はむしろ奨励している。ここのところを完全に学者たちが取り違えてしまって伝えていることに、憤りすら覚えている。論語を採用したのはよかったが、やっかいなことにこの朱子の唱える儒教、つまり朱子学は、徳川幕府の正式な学問として採用された。金儲けは卑しい=商工業者<武士という構図ができた。

「金持ちも貧乏人も、王道、つまり道徳に則った愛情ある振る舞いがきちんとできたとしよう。そして王道こそ人間の行いを計る物差しなのだという考えを持って生きていけるなら。法律、千の規則よりはるかに素晴らしいと思うのだ」御法度で唯々諾諾と従わせるより、道徳をみんなが身につけて、お互いを尊重しあう。(法律で縛るより人々の良心でそれこそはるかに洗練された社会であると渋沢は考えている。徳川家康は儒教(道徳)の思想で世の中を平和にした人物として、大先達だったようだ。

私疑問;論語が受け入れられた時代は?聖徳太子「和を以って、貴っとしとなす」は論語から(奈良時代)、家康の江戸時代、そのほかの時代ではどのように受け入れられたのだろうか?

論語をはじめ中国の古典を例に、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌がわかりやすく説明されている。

 

3本目の柱;渡欧。
①産業革命を達成した結果としての先進的な生産技術によって産業を興し、社会を豊にする欧州社会の仕組みに目を見張った。
②広く資金と知恵を集めて事業を経営する株式会社の有利さ。
③誰もが分け隔てなく語り合い、世の中を築き上げているという市民社会。
④信用を重んじ、道義的な経営をする企業が長続きしている。

道徳と経済を一体化させ、公益を第一にすることは、渋沢が考えるグローバルスタンダードだった。そしてこれは時代を超えた普遍の思想と言えるだろう。

『道理とは、天にある太陽や月のように、いつも明るく輝いていて、決して曇ることはない。だから、道理と共に行動をする者は必ず栄える」と

(7100文字)

1章 処世と信条

今の時代、道徳の基盤となるような最も重要なものを挙げるとすれば、それは孔子について弟子たちが書いた「論語」という書物だと私は思う。私は日頃、この論語に算盤というものを引き合いに出すことにしている。それは一見、釣り合わず、むしろ対極にあるように思えるものだ。けれども、算盤、つまり金儲けは論語によってうまく動かされる。また、論語は算盤を用いることで本当の価値が生まれてくると考えるからである。

『お金儲けは汚いもの(卑しいもの)』?というバイアス(思い込み)にあなたはかかっていませんか?僕は完全にかかっていましたよ。そんな僕に渋沢先生は『商才と道徳は一体であるべきと』とても素晴らしいヒントを与えてくれました。”道義を伴った利益を追求せよ””自分より人を優先し、公益を第一にせよ”という2つの大きな骨組みの姿勢。渋沢先生からお金との上手な向き合い方も学んでいきましょう。

 

『正しい形でお金持ちになる法則』を見つけた
「もし君たちがお金持ちになりたかったら、信用される人になることが一番大切だよ!」
その信用をどうして築くのかというと「論語」だよね。人としての道が示され、人として愛される、尊敬されるような人になれば「信用される」人になるわけだから、商売も必ず論語でやり切れるんだ!っていうふうに言い切った。(日本ハムファイターズ・栗山監督)