偉人、成功者と言われる人々の残した言葉には人生の教訓、エッセンスがギュッと詰め込まれているように感じ、心の琴線に触れることでしょう。
そんな世界中の方の『言霊』に簡単に触れられる有り難さ。
毎朝一つ、3分、世界の(人生の)成功者の言葉にふれよう。
”明日、死ぬかのように生きよ。
永遠に生きるかのようにまなべ。”

(インド独立の父 マハトマ・ガンジー / 1869-1948) Wikipedia
365日、日めくり[今日の名言・格言]11月
1日・孔子
「私は未だかつて強い人間を見たことがない」と言った孔子に対して、ある人が「トウという者はどうですか」と尋ねたときの孔子の言葉
『トウや慾あり、焉んぞ剛なるを得んと』
「トウという者は欲深だから、強い人間にはなれないよ」
この場合の「欲」は自分だけの利益を貪ろうとする「私欲」と解釈できます。
「私欲」というのは、より善く生きたいと願う「意欲」とは、まったくの別物である。
ではなぜ、私欲があると強い人間になれないのでしょうか?それは欲に駆られて、悪い誘惑に負けてしまうことが往々にしてあるから、言い換えれば欲に目が眩むと、志を貫くことが非常に難しいということです。
欲深な人は誘惑に負ける。だから、権力があって強そうに見えても、実は弱い人間である。
その点、欲は欲でも「人間性を高めることに対する意欲」であれば、境遇に翻弄されることも、悪い誘惑に負けることもありません。
孔子先生が言うように「本当に強い人」になるのは難しいことなのかもしれません。
2日・孔子
『少(わか)き時は、血気未だ定まらず、之を戒むる色に在り』
「君子にも3つの戒めがある」と前置きしたうえで、
「若いときは生理が不安定だから、性欲ゆえに失敗しないよう戒めなくてはならない」と言っています。
「君子と呼ばれるほどの立派な人間でも、若いときは色欲を持て余すもんだよ。だからこそ意識して、ちゃんとコントロールしなくてはいけないんだ」
3日・孔子
30代も半ばを過ぎて壮年期に入ったらどうすればいいか
『其の壮なるに及びてや、血気正に剛なり、之を戒むる闘に在り』
「せい欲旺盛なのはいいけど、少しは出し惜しみしろよ。あふれ出る血気は、何かことを為すためのエネルギーとして、効果的に使えばいいじゃないか。壮年になったら、そうやって性欲と戦わなくてはダメだよ」孔子はこう諭しています。
「若い頃から色欲を戒めていれば、老境に入って血迷うこともなくなるだろう。老人になるということは、色欲のコントロールにおいて達人の息に達することでもあるんだよ」
「性欲はほどほどにね」
4日・子夏
賢を賢として、色を易(かろん)じ、父母に事(つか)えては、能く其の力をつくし、君に事へては能くこの身を致す。朋友と交り、言ひて信有らば、未だ學ばずと曰ふと雖も、吾は必ず之を學びたりと謂はん
色欲には賢さをもって対し、父母にはできる限りのことを尽くし、主君にはその身を捧げ、友人には信義を守る。そういう人間であれば、学問がなくとも、十分に学問をした人物であると、わたしは評価する。
人間の評価は学歴のある・なしではなく、親や年長者、友人に対してどう接するかを見て行うべきだ。
5日・孔子
『已(やん)ぬるかな。吾未だ徳を好むこと色を好むが如くなるものを見ざるなり。』
「ああ、情けない。色欲に囚われるくらいに、徳を好む人と、私はまだあったことがないよ」
色恋に心を奪われてしまう人が多く、そのエネルギーを徳の実践に傾けたら、本当はすごい人間になるのに
6日・孔子
7日・孔子
8日・孔子
9日・孔子
『君子は義にさとり、小人は利にさとる』
欲には大きく分けて2種類の願望があります。
一つは「世のため人のために貢献し、みんなが幸せになることによって、自分も悦びに満たされたい」という気持ち。これが「義」です。
もうひとつは「自分がいい思いをしたい」という願望。これが「利」です。欲の多くは、後者の「利」から生まれるものでしょう。「利」という誘惑に、人間はとても弱いのです。
10日・孔子
『利に放(よ)りて行えば、怨み多し。』
「自分の利益だけを考えて行動する人は、周囲から怨まれることが多い」
お金や地位など、自分の私利私欲で獲得されたものであれば、怨みつらみ、妬み、そねみなど、大半が「利」に対する不平等感から生じるものです。
その点、「義」に則った行動をする人は、周囲から称賛され、怨まれることはあまりないでしょう。
11日・孟子 「王道論」
『未だ仁にして其の親を遣つる者は有らざるなり。
未だ義にして其の君を後にする者は有らざるなり。
王も亦仁義と曰はんのみ。
何ぞ必ずしも利と曰はん、と』
王が仁義に篤い人物なら、誰も侮って粗末に扱おうなどと思いません。
王たる者は仁義のことだけ考えるべきです。
わざわざ利を口にしてはいけない。
その前に、王が「遠いところをようこそ来て下さった。我が国の利益になるお話をお持ち下さったのですか」と歓待してくれた時の言葉です。
「どうして王は利を求めるのですか。王にとって大事なのは、仁義だけです。王が利益のことばかり言うと、その下の大夫も、さらに庶民も利益ばかりを欲しがるようになります。そうしてみんなが利に走ると、国は立ち行かなくなります。」
国家の危機は「利」を優先して、「義」を後回しにすることから生じる。
それは企業経営でも言えること
経営で「義」に相当するのが「経営理念」でしょう。
トップはもちろん、ビジネスマンも「先義後利」の大切さを再認識しよう
12日・孔子
『事を先にし得るを後にするは、徳を崇(たか)くするに非ずや。
その悪を攻めて、人の悪を攻むること無きは、慝(とく)を修むるに非ずや。
まずやるべき事をやる。それによってどんな報酬があるかを考えることは後回しにする。それが徳を高めることだ。でもそれだけでは十分ではない。
自分自身に内なる悪が潜んでいないかを自省し、かつ他人の悪を攻めないことが大切だ。」
他人の悪を追求することによって、自分の身に悪を呼び寄せてしまう、自分の内に潜んでいた悪が目を覚ましてしまうということもあるから。
13日・孔子
『一朝の怒りに、その身を忘れ、以て其の親に及ぼすは、惑に非ずや』
「人の悪を攻める気持ちがあると、いっときの怒りに我を忘れて、乱暴をはたらかないとも限らない。結果的に周囲に迷惑をかけることになる。それでは徳を修めたことにはならないよ」
善なる自分を見失い、怒りに任せて他人を攻撃してはならない
自分の悪いところをきちんと反省して徳を高めることは大切だけれど、人の悪いところは攻めない。
14日・孔子 3章「競争社会をどう生きるか」
孔子自身が競争社会を生き抜いてきた人
『貧にして怨むこと無きは難く、富みて驕ること無きは易し』
「貧しい暮らしをしていると、どうしても世の中を怨んだり、自分の運命を呪ったりしてしまう。そういう気持ちを抑えるのは難しい。でも、裕福になったときに、傲慢にならないよう努めることは、比較的たやすい。」
孔子とて、貧窮にあっては、自分の境遇を嘆くこともあったのかもしれない。でも、だからこそ、富を得たからといって、驕ることはなかった。
司馬遷が書いた『史記』に、孔子は「ちゃんと結婚した両親から生まれた子ではない」と言われていて、父も母も孔子が若いうちになくなってしまったと伝えられています。
15日・孔子
『吾少(わか)くして賤し。故に鄙事(ひじ)に多能なり』
大宰という日本でいう総理大臣のような人に「孔子はいろんなことに精通しているねえ。聖人なのかい」と弟子に尋ねたと聞いた孔子は、こう答えました。
「若いときはとても賤しい身分だったから、下々の仕事をたくさんやったんだよ。私がいろんなことに精通できたのも、そのおかげだね。立派な人物だから多能というわけじゃないさ。」と
子開という弟子はこう記録している
「孔子先生はなかなか世に用いられず、下々のさまざまな仕事をして暮らすしかなかったそうだ。だから、多芸なのだとおっしゃっていた」
これを読むと、孔子が非常に苦労人であったことがわかります。生きていくためにはどんな仕事も厭わず、取り組むしかなかった。それゆえに多能多芸になったのであった。
またそんな時代があったからこそ、孔子は頑張ることができた。
世に認められていくなかで、孔子が謙虚な心を忘れなかったのはなぜか。それは「一番つらかったときの苦労を思い出す」ことをしていたからです。
16日・孔子 動画
孔子が競争をどう捉えていたか?
『位無きことを患(うれ)へずして、立つ所以(ゆえん)を患へよ』
「なかなか地位が得られないからといって、嘆いてはいけない。その地位につくだけの実力が、自分にはまだないことを反省しなさい」
思うように出世できないとか、自分の仕事に対する評価が低いとか、やりたい仕事を任せてもらえないとか・・・そんな不満の前に、自分にはまだその実力がないことを反省しなさい。反省し、より良く成長しなさい。
17日・孔子
『己を知る莫(な)きを患(うれ)えずして、
知らる可(べ)きを為さんことを求めよ』
「自分のことを誰も認めてくれないからといって、嘆いてはいけない。
周囲に優れた人物と思われるような仕事をすることを心がけなさい。」
愚痴からは何も生まれないけど、自省をすれば向上心が生まれ、自分を成長させることができる。
18日・佐藤一斎 「言志四緑」
「一燈提げて、暗夜を行く。暗夜を憂えること勿れ。只(ただ)一燈を頼め」
「一寸先は闇」というが、この先はどうなるかは、誰にもわからない。でもだからといって、その暗闇を手探りで歩くような無茶な人生はいけない。
足元を照らす灯りを持って、生きていかなくてはならない。その灯とは、自分自身である。
若いうちは、いろんな人と競い合いながら自分を成長させていき、でも一方で、だんだんに他者との競争から脱して、「内なる自分」と競争するようになる。
「昨日の自分より、今日の自分。今日の自分より、明日の自分がよくなるように」
今の岐阜県出身の、今で言うなら、東大の学長のような人。門下生は三千人とも言われ、佐久間象山など幕末に活躍した多くの人材を世に送り出した。
その一斎がが終始一貫主張していたのが、「自己の確立」の重要性でした。
そうすると、他人がどうであろうと気にならなく、比較したり、嫉妬したりしなくなる
そうして「無競争の領域」に入れば、ただ自分の身を頼りに、自分に恥じない言動を心がけながら、立派に生きていくことができます。
孔子の言う「立つ」とは、そういうこと。
皆さんもぜひ「只一燈を頼め」の境地を目指してください。幸せへもつながっているでしょう。
19日・孔子 実力とは
弟子の子路が「鬼神(きじん)に仕えるとはどういうことですか?」と尋ねられたときの孔子の答え
「未だ人に事(つか)ふること能(あた)はず、焉んぞ能く鬼(き)に事へん」
「まだ人に仕えることさえわかっていないのだから、神のことなどわからない」と言いました。
「鬼」や「鬼神」というのは「何か不思議な力を持ったすごいもの」のこと。「霊」といっった概念に近いと思います。
儒教の思想には「あの世」や「神(ゴット)」といった概念はありません。
「死んでも、早くこの世に帰って来たい」からと、目印になるように、自分が生きた痕跡として葬式を行い、お骨を残す。「この世が一番」というような思想なのです。
また、子路が続けて「では、死とはなんでしょう?」と尋ねたとき、孔子は
「生きることすらまだよくわかっていないのに、死を理解することなどできるものか」と突き放しています。
20日・孔子
まず、人間を知ること
「実力をつける」ということは「人間通」になること。
・人間というのは、こんなことをされると不愉快に感じる。
・こんなことをしてあげると、喜んでくれる
・こんなふうに接すると親しみを感じてくれる
そういったことを人間関係から学ぶ。それがより善い人生を生きる秘訣である。孔子はそう主張しています。(田口佳史の意見も入っている?)
「論語」読むと、孔子が現実の社会でさまざまな経験をしながら人間の反応を学び、それを生きる知恵に変えていったことがよくわかります。自分の関わる他者の全てを教師として、自分の言動に磨きをかけた。大変なリアリストなんですね。
人間がわかっていないと、平気で人に迷惑をかけたり、嫌われるようなことをしたりしてしまいがちです。自分の言動を相手がどう受け止めるかが想像できないために、独りよがりな交流に終始するのです。
人間社会で生き、仕事をする以上は、何よりも「人間通」であるか否かに実力が問われるのです。
仮に競争を是認するにしても、争点を「人間通であるか否か」に置く
21日・孔子
『驕(こう)且(か)つ吝(りん)ならしめんば、其の餘(よ)は観るに足らざるなり』
もし傲慢で、自分の労や才能、情などを出し惜しみするような人間であれば、称賛に値しない。」
ここで引き合いに出されるのが周公です。
周という国は文王・武王の父子がつくった国で、周公は武王の弟に当たります。武王の息子である成王が王位を継承したときはまだ幼かったため、周公が後ろ盾になって活躍しました。その政治が素晴らしく、孔子は周公に理想の人物像を描いていたわけです。
どんな才能のある人物でも、
「驕る」=傲慢になってしまう、自分が優秀ゆえに、周囲の人たちを小馬鹿にするような態度をとる。あるいは手に入れた権力を笠(かさ)に着て威張る。
「吝」=自分の有するものを他者に与えるのを惜しむことです。自分のい利益だけを考えて、他者のために労を尽くすことを惜しむ、困っている人がいても、情けをかけない。何かを教えて欲しいと頼まれても、「自分で調べろ」などと突き放す。そういう人を指します。
人間というのは偉くなればなるほど、「驕」と「吝」に足をすくわれがちになる。
そういったことにならないように心がけるのも、実力のうちである。
22日・孔子
『夫(そ)れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、慮(おもんばか)りて以(もつ)て人に下る』
達人というのは心がきれいで、自分のやるべき仕事を陰に回って黙々と果たす人だ。
人の言葉から本当はどういう心境にあるのかを読み取り、表情から真意を見抜き、
思いやりをもって謙虚に人と接するのが達人だ。
これは弟子の子張が語った”達人像”を正した孔子の言葉です。
「名声の高い人が、達人ということではないよ」と
地位が上がっていくと、人は評判や名声ばかり気にする方向へいきがちです。
真に優れている人は、名声など見向きもしない。人の気持ちを汲み取って行動できる「人間通」であり、世の中のために力を尽くす「社会通」である。自己を確立した人
競争社会を勝ち抜いて実力をつけた時、「聞」に惑わされるか、「達」に生きるか。
そこが人間の価値を決める分岐点になるんじゃないでしょうか?
23日・孔子
『君子は争う所無し。』
これは、相手が争い自体を放棄するするほど、優れた技量を持つとも言えるでしょう。
この言葉に続けて「争うとしたら、射(弓仕合)くらいだね」として、次のように。
『揖(いふ)譲(じょう)して升下(しょうか)し、しこうして飲ましむ、其の争いや君子なり」
君子はお先にどうぞと順番を譲られながらも、礼を失せずに謙虚にふるまう。そして競技ごは、相手とお互いの健闘を称え合って、酒を酌み交わす。そんなところにも君子の気風があらわれる。
24日・孔子
『忠信を主とし、己に如かざる者を友とすることなかれ、過ちては則ち改むるに憚(はばかる)こと勿れ。』
真心を大切にして生き、自分より劣った者を相手にすることはない。自分より優れた者に相手してもらい、自分の改善すべき点を改めていかなければならない』
競争で大事なのは勝ち負けではなく、競争によっていかに自分を向上させることができるか。自分より劣った者と競争しても、自分の欠点はわからないから、勝ったところで意味はない。
それよりも自分より優れた人に、競争を受けてもらう。相手はイヤでしょうが、そこをなんとかお願いする。あるいは仮想敵に見立てる。当然、負けることになりますが、それによって自分の欠点がわかります。そこを意識して強化していけば、競争によって自分を成長させていくことができる「負けるが勝ち」というわけです。
25日・孔子
「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。」
「君子は志を同じくするもの同士で団結(仲良く)するが、みだりに人に同調することはない。(「それは違うよ」とはっきり言える。または同じことをしない。)
逆に小人は、自分に何の主義主張もないままにわけもなく人と同調するだけで、一つに結束することができない。」
主義主張や志を同じくする部分で手を取り合い、でも食い違うところがあればお互いの意見を忌憚なくぶつけ合う。そういう付き合いをすることが大切だと、ここで孔子は言っています。(夫婦もそういう関係ではないか)
自分がなくて、いつも多数派に付和雷同するような人は、大した人物ではないと。
26日・孔子
顔淵に「仁とはどういうものか」と問われて、孔子が言った言葉。
『己に克ちて禮を復むを仁と為す。1日(いちじつ)己に克ちて禮を復めば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由りて、人に由らんやと。』
「己に克ち(自律)、礼儀正しくすることが仁である。一人ひとりがこれを実践すれば、社会が善くなる。仁を実践することは、まず自分が率先して心がけるべきことで、人に吹聴することではない」
この文章の眼目は、「一人ひとりが己に克ち、礼儀を踏み行うことを心がけてふるまう。そうすれば、社会全体にその風紀が広まり、善い社会が形成される」
この思想を発展させた言葉に「国は一人にして興り、一人にして滅ぶ」というものがあります。
「論語」をはじめとする儒家の思想では、社会という集団よりも、それを構成する個人にフォーカスして道理を説いている点が特徴的。だから「克己」が非常に大事なのです。
「己に克つ」とは自分のうちにある邪(よこしま)な考えや私欲に流されない、立派な人間性を形成することです。
「礼を復む」とは、どんな身分・地位の人に対しても敬意をもって接し、人間としての規範を守ってふるまうことです。
こういう人間がいると、周囲は善い影響を受けますよね。多くの人々が自分もそうあろうと心がけるようになります。だから、自然と社会が善くなっていくわけです。
「競争社会に振り回されることのない、たしかな自分自身をつくれ」
27日・孔子 義とリーダーシップ
「人間の本質」を説く『論語』は、「リーダー育成論」としての側面を持ち合わせています。「人々を苦境から救い出すリーダーに、どんな資質が求められるか」この点についてのい論を展開しているのです。そのなかで孔子が最も重視しているのが「義」なのです。
まず「義」も文字の構成をみましょう。「犠牲」という文字に使われているように、「義」は犠牲的精神を表します。
さらに「義」は「美」からできた漢字で、下に「我」と書く。つまり「美しい我」
「あなたが一番美しいのは、命がけで他者のために働いているときですよ。」という意味を含んでいます。
つまり「義」を貫くことによって、周囲の人々や社会が自然と良い方向へ引き上げられていく。だからリーダーの資質として「義」は非常に重視されているのです。
逆に自分のことだけを考えて行動する人には「義」がありません。したがって美しい人間ではない。当然誰もそんな人間には憧れないし、ついていこうとも思わない。
『論語』は、人間のあり方として、「仁」と「義」を学ぶ書で、すべての人に求められる資質です。
実は孔子でさえ、「自分もまだまだだねえ・・・」と言っている。それほど「義」は難かしいことなのです。
28日。孔子「義」
『君子を躬行う(きゅうこう)することは、則ち吾未だ之を得ること有らず』
「立派な人物をと認められるような言動ができているかと言うと、自分もまだまだだねえ」と孔子ほどの人でも言っています。
学問がよくできても、リーダーにふさわしい言動をとれるわけではない。
29日・孔子
「文は吾猶ほ人のごときこと莫(な)からんや」
「学問は人並みにできなくもないけどね」とも言っている。
しかし学校で勉強しただけでは、リーダーとして最も重要な資質である『義』を学び、身につけ、実践することはできないよ。と
じゃあ、どうすれば「義」を学ぶことができるのか?
それは、いろいろな人と交流するなかで、感じ取るしかないでしょうね。優れたリーダーとされる人を観察し、
「なぜ、みんなはこの人に惚れ込むのだろう」
「あの人のどこが、多くの人から尊敬されているのだろう」などと考える。
30日・ガンジー
”明日、死ぬかのように生きよ。
永遠に生きるかのようにまなべ。”