偉人、成功者と言われる人々の残した言葉には人生の教訓、エッセンスがギュッと詰め込まれているように感じ、心の琴線に触れることでしょう。
そんな世界中の方の『言霊』に簡単に触れられる有り難さ。
毎朝一つ、3分、世界の(人生の)成功者の言葉にふれよう。
”明日、死ぬかのように生きよ。
永遠に生きるかのようにまなべ。”

(インド独立の父 マハトマ・ガンジー / 1869-1948) Wikipedia
365日、日めくり[今日の名言・格言]10月
1日
2日
3日
4日・孔子 人間関係の教え
『辞は達するのみ』
言葉は意味を伝えることが大事なんだ。
上手い文章を書こうとしてカッコよく飾ったりして、帰ってゴチャゴチャにして、何が言いたいのかわからないことがある。「言葉は意味を伝えることが一番大事なんだ」と孔子先生は言っている。新聞の見出しのように言いたいことをスパッと決めて、そのテーマに沿って書くと相手に伝わる文章になる。
話し言葉でも「スパッと」が大事だ。「えーっと、あのー」はよくない。発表時間を10秒、30秒と限って練習してみるといい。そうして少しずつ伸ばしていく。わかりやすい言葉で意味をきちんと伝える練習をしておかないと、いけない。
5日・孔子 生き方の教え
『思い邪(よこしま)なし』
心に曲がったことのないようにしよう。
「邪」は「じゃ」とも読む。「邪心」は曲がった心。「邪念」曲がった考え。
孔子先生は『人生で大事なことは邪心・邪念がないこと、つまり純粋であること』と言っている。
孔子先生は『詩経』という三百編の詩を収めた本の魅力は、「思い邪なし」、つまり「純粋さ」にあると言った。自然を見てフッと心が動くときには、心が純粋だから動く。純粋でないときにはものが見えてこない。心をいつも純粋にしておけば、いろいろなものを感じ取りやすく、楽しくも感じられる。
勉強や、詩や俳句を作るときにも、一回息を吸って、フーッと吐きながら邪気を出していくと、心も頭もすっきりするのでオススメ。
6日・孔子 学びの教え
『我れは賈(こ)を待つものなり』
私は、私の力を期待する人が現れるのを待っている。
自分の道を見つけ、自分に期待してくれる人がいたら、それに答える。自分の力量に期待してくれる人がいるのなら、自分はそこで頑張るということ。
孔子先生は「役人になるにしても、自分からではなく、主君に求められてなるのが理想だ」と答えたところからきています。
(私見)だからまず、「これ!」「これが私の道」というものを見つけ歩むこと、自分が本当に望まないことをしていて、それに気が付かず励んでいても、他の人がそれを買ってくれ、頼まれることか増えてもしんどくなってしまう。
(その信頼関係がいい仕事を生む。すると、それを見た人が「こういう仕事はどうですか?」と新たに申し込んでくる。それに答えると、さらに仕事がくる。これが信頼関係というものなんだ。)
7日・孔子 人間関係の教え
弟子たちから「先生の志望はなんですか?」と聞かれて孔子先生が答えた言葉。
『老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、少者はこれを懐けん』
と答えました。
それはこんな場面でのことでした。
顔淵(顔回)と季路(子路)がおそばにいたとき、先生が「お前たちの志を言ってごらん。」といわれた。
子路は「自分の馬車や毛皮の外套(上着)を友と共有し、友がそれをダメにしても恨まないようでありたいです。」といった。
顔淵は「自分の善いところを誇らず、人に対してつらいことを押しつけないようでありたいと思います。」といった。
子路が「どうか先生のお志をお聞かせください。」というと、先生がこういわれた。
「老人には安心されるよう、友達には信頼されるよう、若い人には慕われるようでありたいね。」
孔子先生は、愛する弟子たちとの会話の中で、すっと自然で、偉ぶることなく、温かく具体的に自分の志を語りました。
「君は何になりたい?」と聞かれたら、プロ野球選手になりたいとかケーキ屋さんになりたいとかいうふうに答えると思うけれど、孔子先生は、職業ではなくて、「どんな人物になるか」を大事にしたんだ。
宮沢賢治は『雨ニモマケズ』で、みんなに「デクノボー」と呼ばれてもいいから、みんなのためになる人になりたいと言った。
孔子先生が言うように「老人から安心され、友達から信頼され、若者から慕われる人間」になれば、人生は完璧だ。
人の役割というのは、自分が今いる場所や人との関係によって違ってくる。それぞれに対応した自分がいるんだということを心得ておくことはすごく大事なんだ。
こういう自分になりたいという自分のイメージすることで、それに近づいていくことができるんだ。
8日・孔子 「大学」
人はなぜ「学ぶ」のか?
『大学の道は、明德を明かにするにあり』
「大学の道」というのは「人間はなぜ学ぶのか」という問題提起
明徳の意味:
生得の曇りない本性(みんな生まれながらに持っている曇りのない本来の姿)
立派な特性。正しく公明な徳。天から与えられた優れた徳
では「名德」とは、他者を思いやる、他者を大事にする。自己の最善を他者に尽くしきる得のある人になる。
(「学ぶ目的は、より善く人生を生きる。そのコツとして明德を習得することにある。」ということ。私たちは、つい何を得るために行動しがちですが、 名德から始めるように生きれば、全てが得られる。それが道理に近づくことだ。明徳を習得することが第一義。)
より善い幸せな人生を歩むことが、学びの目的。
今までの学校での「勉強」(詰め込み型)のイメージとは違いますよね。プラスのイメージを持ってこれから学んでいきましょう。
9日・孔子
『學びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや。』
学び続けて、いつでも活用できるよう何度も繰り返し行う(おさらいをする)。それは人生の大きな悦びではないか。
これは「論語」の巻頭を飾る有名な言葉。最初の最初に持ってきたことから、孔子の教えの中でももっとも重要なものだと見ていいでしょう。冒頭
学習して自分自身を向上させることを、孔子は一生続く人生の悦びだと捉えている。
学んで、習得して、卓越する。もっと学びたいと思い、学んで、習得して、卓越する。その中には失敗も含まれる。失敗しながら人は学び、成長していくのである。赤ん坊が歩き始めるのと同じ。転びながら、学習しながら一歩一歩伸ばしていく。
3つの要素をグルグル循環させる。学べば学ぶほど新たな世界が開ける。興奮する、ワクワクする、未知なるものへの冒険心。それが楽しい。楽しく知的な遊戯。
これが学びの悦びであり、より善く生きること。
『學びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや。』
学習して自分自身を向上させることを、孔子は一生続く人生の悦びだと捉えている。
動画済
10日・孔子
『人の生くるや直し』
「人生で一番重要なのは、素直であることだ」
とする孔子は「もし、その素直さもなく生きていられるとすれば、幸運にも難を逃れただけのことだ」と続けています。
前項を思い出してください。学ぶ段階でいちいち「そんなことを勉強してなんの役に立つんだ?」とか「この人の言っていることは本当だろうか?」などと反発、疑いを持っていたらどうでしょう。自らインプットの経路を立つことになり、当然、アウトプットによってさらに学習意欲を高めていくこともできません。
自分より優れている人や本は周りに溢れていることを知り、自覚し、素直に学ぶ姿勢が求められます。
11日・孔子
『学びて思はざれば、則ち罔し。思いて學ばざれば則ち殆し』
「たくさん勉強しても、思考しなければ、得た知識・知恵を社会でどう発揮すればいいかがわからない。逆に、思考するばかりで、学習をしなければ、独善的になってしまう」
孔子が言う学びは、多くが体験・経験によるものです。
とくに貴重なのは、挫折や失敗から学ぶこと。それをいかに社会に役立つ能力に転換させていくか?
「思考して、考えて」経験知をどう活かせばいいかを考える。
逆に、いくら思考していても、豊富な経験・知識という裏付けがなければ、独りよがりな行動に終始する。それも善くないとしています。浅知識で策を弄したところで、実効性は望めない、ということです。
つまり、「学ぶ」と「思う」の繰り返しによって、習得した経験・知恵を社会で発揮することが重要だ、ということです。
12日・孔子
『君子は憂へず懼れずと。』
これは、弟子の司馬牛が「君子(立派な人)とはどういう人ですか?」と尋ねたときの孔子の教え。
「何も憂えることがなく、懼れることもない人だ」としています。
他者に自分の人生を握られるほど、情けないことはありません。そうならないよう、「自己の確立」を目指す。 世の中に不景気の風が吹き荒れていようと、思うように仕事で成果をあげられなくとも、人間関係で辛酸を舐めようとも、何があっても動じない。自分の思う所に従って生きていける自分を確立する。
自分が満足して、幸せに生きるために学ぶ。そこに学びの意義がある、ということです。
「学びによって、自己の最善を他者のために尽くしきることのできる、徳のある人間になる」ことと矛盾するように思いますが、まず、自分が確立されていなければ、人を救うことはできません。逆説的に言えば「自己の確立」とは他者を救う方法でもあるのです。
「自反」すれば憂いはなくなる
『論語』をはじめとする中国古典思想では、一貫して、
「常に自らの言動を反省し、自分はどう生きるかを考えなさい」と言っています。
13日・孟子
『自ら反して縮(なほ)ければ、千萬人と雖も、吾れ往かん、と』
「自分を省みて、正しければ、たとえ他の千万人が異議を唱えたり、非難したりしても、わが道をいくのみだ」と言いました
大変威勢のいい言葉ですね。自己が確立されているというのは、こういうことなのです。
また、孔子は「論語」の中でこう言っています。
『内に省みて疚からざれば、それを何をか懼れんと』
「自分の心を省みて、何も疚しいことがないのなら、いったい何を憂え、何を懼れることがあろうか」
自己を確立することが、憂いなく、懼れなく生きるカギになることを伝えています。
14日・孔子 学びの教え
『憤せざれば啓せず。悱せざれば発せず。』
これはなかなか、強烈な言葉です。
「学ぶ姿勢として、発憤することが一番大事だ」と言ってるんですね。
発憤=これから大いに励もうと精神を奮い起こすこと。
発憤興起=心を奮い起こして立ち上がること。
また、「わからなくてもがいている」こと
「勉強しなさい」とか言われ、「勉強をやらされている」という感覚があれば、すぐに飽きてしまいます。
例えば「論語を勉強しておくと、うまく生きられる」といった具合に、学びを自分の問題としてとらえる。
新たな発見が楽しくなってきて、もっと学びたくなり、ここまでくると周囲から「勉強するな」と言われても、勉強をやめられなくなる。
もっと強烈なのが、「悱」という言葉。これは、言いたいこと、聞きたいことが山ほどあるのに、それをうまく表現できずに、口がもぐもぐしている状態をいいます。
なんだかよく言葉にしては言えないんだけど「真実」みたいな、「生きる目的」みたいな「人として美しくいきたい」そのためにはどうしたらいいのみたいな、どう聞けばいいのかわからないけど、何か人として【大切なことを求める】求めていることが学ぶ姿勢として、大事なのではないか。
孔子先生は弟子がそんな状態でない時は、「教えないよ、教える気にはならない」と言っています。
15日・孔子 学びの教え
『一隅を擧げて、三隅を持って反(かえ)らざれば、則ち復(ふたたび)せざるなり』
(「1を聴いて10を知る」のように)自ら学ぶことをしない者には教えられない。といっています。
『之を如何せん、之を如何せんと曰はざる者は、吾之を如何ともすること未(な)きのみ。』
「どうしたらいいんだろう、どうしたらいいんだろう」と一生懸命考えている人でなければ、それをこうすればいいと教えることはできない、指導のしようがない。
「学びたい」意欲に満ちているからこそ、学んだことが血となり、肉となって、自分自身をどんどん向上させることができる。これも、「学び」の本質でしょう
16日・孔子
『子四を以て教ふ。文(ぶん)・行(こう)・忠(ちゅう)・信』
「孔子は4つのことを重点的に教えた。学問と行動と、自分に嘘をつかない心、欺かない心である」
孔子が「論語」のなかで教えているのは、うまく善く生きるためのコツなんですね。
「文」=元々は自分をきれいな人間に装飾するものという意味
そこから派生して、学問を表す言葉になった。
=「学問を身につけることによって、人は美しい人間になれる」と解釈できます。
孔子の学問所では、人間の道理や徳について教えていましたが、その学問は人間を美しくするものであったと考えていいのではないでしょうか。
=「学問が人間としての品格を向上させる」ということ
「行」=学んだことを行動で示す、という意味。
学ぶだけでなく、それをどう社会や人々のために役立てるかを考えて行動する。それが大事。
この「文」「行」が基本にあって、さらに「忠」「信」を教える。いずれも「真心」を意味する言葉。
17日・「忠」と「信」
「忠」の字は、「中」に「心」と書きます。偏りのない心、嘘のない心を表します。
自分に対して嘘をつかない、欺(あざむ)かない
欺く=偽り、だます。惑わす、取り違いさせる。
「自分に対して真心を尽くせ」と言いたいわけです。
自分に嘘をついてはいけないということは、中国古典思想の随所で言われることなんですね。例えば、心にもないおべんちゃらを言うとか、言うこととうやることが違うとか、そう言うのはダメ。言行不一致です。
常に自分自身と対話しながら、嘘偽りのない公正な心に従って行動する。そんな「言行一致の自分をつくっていくことが大切なんです。
一方、「信」の字は、他人に対して真心を込めることです。
自分だけでなく、他人にも嘘をつかない。「人には誠心誠意の真心を込めて接しなさいよ」と、孔子は教えています。
このように「文」「行」「忠」「信」を学ぶことによって、美しい人間になることができる。私には孔子が「人間の真価は顔じゃないよ、姿じゃないよ、学びによって得られる美しい生き方にあるんだよ。身を飾る暇があったら、心を磨いたらどうだい」と言っているように感じます。
そう思うと、いっそう学ぶ意欲が湧いてきませんか?。美しい人間になりましょう。一生懸命に勉強して。
18日・有若
『孝弟なるものは、それ仁の本為るか。』
これは弟子の有若の言葉。
「孝弟の心は、仁をもって生きることの根本である。」
「孝」
は親、「弟」は兄弟という意。親兄弟に感謝する気持ちを意味し、「生まれてきたことに感謝する心」と解釈していいのではないでしょうか?
逆に親を怨み、世をすねて生きる人が増えると、社会を混乱させる振る舞いが横行してしまうでしょう。
つまり有若は「生まれてきてよかったな」と思って生きることが、「仁」の大本だと行っているんですね。
ここで「仁」とはなんぞということを考えてみましょう
『論語』は「仁」について書かれた書物である、とはよく言われることです。
19日・「仁」
学ぶことの大きな目標のひとつは、『仁』という道徳観念を身につけ、実践することにある。
井上靖氏が「仁」について語ったこと。心細い状況の中で、心温まる家族の光景に出会う「ああ、いい光景だな。この地球上の一人でも多くの人が、こういう幸せの一時を味わえるといいんでがな」と思う。そんなようなこと。地球上のすべての人が愛に包まれて過ごす幸せを願わずにいられなくなる。そんなようなこと。
『弟子入りては則ち孝、出ては則ち弟、謹みて信、汎く衆を愛して仁に親しみ、行ひて余力あらば、則ち以て文を学べ』
「子供たちへの教育は、家族にあっては親を敬い、社会に出たら目上の人に従うことから始めなければならない。また、多くの人たちに信頼され、同時に自分も広く人々を愛する人間に育てなければならない。それが仁を身につけることにつながる。そのうえでまだ余裕があるならば、学問をさせるといい」
家庭は子供が社会に出るためのトレーニングセンターである。
私見;そういう人間になりたいと思ってきたけれど、それをどのように実践するかという具体的方法がなかなか分からないものであった。子供にどう教えればいいのか?
私は人を愛を愛したり、人に思いやりを持つためには自分に、”今”に感謝できること、がまず必要なことであると思う。そういう人間になるためには何が必要か?
7つの習慣で言う、まず私的成功があって公的成功がある。まず、しっかりとした自分を築くこと。主体的であること、終わりを思い描き「ミッション」を描くこと、忙しさに振り回されず、最優先事項を優先すること。そうしてしっかりとした自己を築くこと、が土台になってくると思う。それが「仁」を身につけることにつながると思う。
またその土台となるものが習慣で、特に3つ「読書」「運動」「瞑想」であると思う。先読書で人の知に学び(知・学・実践)、運動で前向きになれ自分の能力を高め(活力・勇)、瞑想で本当の自分を自覚することで、誠実性や仁を養うことができると思う。
みんなの幸せを思いやる「仁」を養いたいものです。そういうものに私はなりたい。
20日・孔子
21日・孔子
22日・孔子
『己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ』
子貢が「人間としてやるべきことを一言で言ってください」と尋ねたとき、孔子は「恕(じょ)である」と答えました。続けて「恕」を説明したのがこの言葉「自分がイヤだと思うことを、人にしないことだ。」と言っています。
これは、非常に単純明快な教えで、小学生でもわかる。ただ人間というのは、「できて当たり前のことができない」ものなんです。
だから、自分がイヤだと思うことを人にしないよう心がけ、簡単だと、侮ってはいけません。常に「それ、自分がやられたらイヤじゃないか?」と自分に問いかけ、行動を律する必要があるのです。
23日・孔子
孔子が貫いた「忠恕」という生き方。
『夫子の道は、忠恕のみ』
孔子が「私の人生はひとつのことを貫いてきた」とだけ言った。曾子が「そうですね」とだけ答えた。先生が部屋を出た後、曾子は他の弟子たちに「孔子先生の生き方は、忠恕の心に尽きる、ということだよ」と言った。
・「忠」は自分に対して嘘をつかないと
・「恕」は他者を思いやる心です。(女性の使う優しい言葉)
「みんなが幸せに暮らせるといいなあ」と願って行動する「仁」があれば「忠恕」の心が現れると解釈できます。(著者)
本書の最初に触れた「徳」も同じ。「仁」と「徳」を学ぶことによって、人は「忠恕」ー思いやりに満ちた心に発する振る舞いができるようになる。
24日・孔子
『己を行うに恥有り、四方に使いして、君命をはづかしめるを、士と謂う可しと。』
これは、子貢から「立派な人とはどういう人ですか?」と尋ねられた時の孔子の言葉。
「自分の言動に対して、いつもどこかで恥を感じ、どこへ名代として派遣されても、その人の名をはづかしめることなく行動できる人だ。」
「自分はまだまだだなあ。もっと向上しないといけないなあ。まだ勉強が足りないなあ」と反省を重ねるということ、そういう習慣の身についている人。立派な人間を目指して日々向上を続けているかが重要だ。
「恥」とは何か?自分の振る舞いを見て、他の人がどう思うかは関係ない。自分のすることを「もう一人の自分」が厳しく見ていて、「お前は、まだまだだぞ。お前より立派な人はたくさんいるぞ。いい気になるんじゃない。恥ずかしいよ、もっと謙虚になれよ。
恥の概念は、自分の中に「もう一人の自分」がいることから生じる。他人に叱ってもらう前に、常に厳しい自己チェックを行い、自らの身を正していく。
たとえば社長とか親とか誰か目上の人の名代としてどこかを訪問したようなとき、その目上の人を辱めることのない行いができる人が立派だ。
25日・孔子
さらに、「その次に立派な人は?、、、」と子貢は訪ねている
「言えば必ず信に、行えば必ず果」
「言ったことは守り、やったことには結果を出す人」は3番目くらいに立派だとしています。「少々石頭で、さほどの人物とは言えないけどね」という注釈付きで。
有言実行で結果を出せる人なんて、すごく立派なことだと思うけど、孔子は三流扱いなんですね。
そんな人よりも、自分の言動を常に厳しくチェックする「もうひとりの自分」を持っている人の方が、数段上。そこを目指すのが、障害続けるべき「究極の学び」だとしています。
確かに、「自分はまだまだだ」と思い続けていなければ、人間の成長は止まってしまいますね。満足してしまっては、この先の成長は望めない
自分の言動に恥を感じることなく、傲慢にふるまうことは、孔子に言わせれば「大した人物ではない」ことの証でしょう。「もうひとりの自分」を持って学び続けることができる人こそ、立派な人間になれるのです。
どんなに立身出世しようとも、仕事で大きな成功をしようともこの「恥」の概念をもって自らを戒める。でないと、学びという「一生の悦び」を、自ら放棄することになってしまいます。
26日・孔子 欲望にどう向き合うか?
欲望は人間にとって重要
『富と貴とは、是れ人の欲する所なり』
孔子は富貴(ふうき)ー経済的な豊かさと、社会的地位の高いことを、むしろ重じていました。「人なら誰もが望むものだ」としています。それを求めることは悪い事ではない。
逆に、その後に続く部分で貧賤ー暮らしが貧しく、賤しい身分である状態を、「誰も望みはしない」と言っています。ただし
『君子仁を去りて、惡(いづ)くにか名を成さん。君子は終食の間も仁に違ふこと無く、造次にも必ず是(ここ)に於(おい)てし、顚沛(てんぱい)にも必ず是に於てす。』
「人として正しいことをしていれば、富貴を得ることはできる。早く貧賤から逃れたいのであれば、道理を大切にして生きなければならない。君子は食事の間もあわただしい時や火急のときも、如何なる時であろうと、仁に基づいて行動するものだ。つまり仁がしっかり身についているくらいでないと、富貴は手に入らない」
「より善い人生を生きるうえで、欲望を持つことは必要である。でも、それ以上に、仁に照らし合わせて欲望を操作することが大事である」
27日・孔子
『吾れ嘗(かつ)て終日食らわず、終夜寝(い)ねず、以て思う。益なし。学ぶに如かざるなり』
わたしは前に、1日中食べず、一晩中眠らずに考え続けたことがあったが、得るものはなかった。それより書を読み、師に聞いて学ぶ方がいい。
言い方は悪いけれど、「バカな人ほど自分の頭で考えたがる」と思うことがよくあります。
自分の頭で考えること自体はいいですが、方向性を間違えていたら、なんの意味もなくなります。わかっている人にさっと聞くのが効率的です。
孔子先生ですら、「飲まず食わずで1日中考えてもムダだった」と言っているのですから、一人で考えようとし過ぎないよう注意が必要です。
仕事では、上司の指示に応えることが基本になります。そのときに指示の内容をきちんと理解していないと、最初の方向性を間違えてしまいます。そうならないように、指示を受けたらまず、上司に大まかな方向性を確認しておくことが大切です。
さらに念を入れて、指示された仕事を2割やったところで「こんな感じでいいでしょうか?」と上司に尋ねると、なおいいでしょう。
また指示を出すときも「とりあえず2割くらい進んだら、一度見せてくださいね」とこのようにすれば、方向性の違いという初歩的な問題をかなり減らすことができます。
できる人に教えを乞う:もう一つ大事なのは、自分で考えてもよくわからないことは、さっさと経験値の高い人に教えてもらうことです。
何日も考えてわからなかったことが、聞いてみると、一瞬にして解決した、というようなことはよくあります。その意味では、自分の頭で考えるべきことと、人に教わるべきことを区別することがポイントになります。これが孔子のいう「学ぶにしからざるなり」ということなのです。
28日・中国古典思想
『陰陽和して元となす』
陰陽とは
大雑把に言えば、
陰:内へ内へと入ってくるはたらき、受動的な性質
陽:外へ外へと拡大していくはたらき、能動的な性質
と分類しているのが「陰陽思想」。陰と陽とは互いに対立する属性を持った二つの気であり、万物の生成消滅と言った変化はこの二気によって起こるとされる
ポイントは陰は陽が、陽は陰があって初めて1つの要素となりうる。つまり、陰と陽が和されている状態を「完璧」としているのです。
料理でたとえるなら、すまし汁は水のなかに鰹節や昆布などの出汁や、塩、醤油、酒などの調味料が全部溶け込んでいますね。そんなふうに、様々な要素が一つに溶け合っている状態を「和」という。
私たちが生まれながらに持っている欲望は「陽」に当たります。よってどんどん拡大していきます。その欲望一方だと、完璧な人間にはなれません。ブレーキをかける「陰」が必要です。その「陰」に相当するのが。人として守るべき道理。自分の内側に向かって働く力なのです。
29日・孔子
『朽木(きゅうぼく)はふるべからず、糞土の牆(しょう)は、ぬる可からず』
これは弟子の宰予(さいよ)が昼寝をしているのを見て咎めて、孔子が言った言葉です。
「腐った木には彫刻することはできない。ボロボロになった土塀は塗って修復することができない。」という例え
「まったく宰予みたいな怠け者のことは叱ってもしょうがないよ」教育するこはできない、磨きをかけることはできないと。
「論語の中でも1、2を争う、孔子の厳しさが見て取れるところです。
「意欲」を持つことの重要性
人間が成長していくためには「意欲」という欲望こそを持たなければならない。でないと磨きようのない人間に墜落してしまう。
30日・孔子
未だ貧しくて楽み、富みて禮を好む者には若(し)からざるなりと。
これは弟子の子貢が「貧しくても卑屈にならず、金持ちになっても偉そうにしない、という生き方はどうでしょうか?」と尋ねた時の孔子の答えです。「まあまあ、というところだね」と評し、こう言いました。
「貧しくても心豊かに暮らす人、金持ちになっても礼儀をわきまえてふるまう人には及ばないよ」といいました。これに続いて
31日・「切磋琢磨」
子貢が「詩経」にある
『切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するがごとし。』
という言葉をあげて、「そのように心を磨きなさい、ということですか?」と尋ねたのです。
孔子は「子貢よ、君は『詩経』をわかっているね。よくぞ、私が言ったことに対して、先回りをするように意を汲んで理解してくれた。」と悦びました。
「切」はナイフなどで切り出すこと、「磋」はやすりなどで削ることで、この「切磋」は動物の骨や象牙を美しく装飾すること。
「琢」はツチなどで叩くこと、「磨」は砂などで磨くことで、この「琢磨」は玉や宝石を磨くことをいいます。
つまり、磋いだり、琢ったり、磨いたりして立派な細工をこしらえるように、人間は学問や道徳に努め励んで人間性を育み、自分を美しくしなければならないことを意味しています。
欲望のコントロールも、どんな状況にも翻弄されない自分でいることにつながる。
自分を磨くこと「切磋琢磨」することに生きる醍醐味を見出していれば、貧しくとも心豊かに、富ても礼儀をわきまえる人になれるだろう。